ブログ開始以前の各種資料の一部

2013.07.02 Tuesday

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    目次(「南木クラブ・宗教と哲学の部屋」)

    南木です。
    『南木倶楽部・宗教と哲学の部屋』ブログで未公開だったメールの一部をここにおいておきます。

    また、非公開のものも、会員は過去のメーリングリスト(ML)をさかのぼって探さなくても、必要な記事は、すべてこのブログ内で探すことができるように今後して行きます。(ただし、MLでは実名だった方も、ここではすべてイニシャルに変えています。)

    できる限り公開したいと思うのですが、おそらくブログに何もかも公開することはできないし、しないほうがよい種類の情報も、徐々に増えると思います。

    今回はこうして一部公開しますが、それは、これら資料は、今後新しくML会員になる方にも参考になると思うからです。

    今後の非公開会員用資料を閲覧するには、
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    南木隆治(みなきたかはる)

    ----- Original Message -----
    From: みなき たかはる
    To: 南木倶楽部全国
    Sent: Wednesday, September 26, 2012 11:14 PM
    Subject: (連載)「ゴータマ・シッダールタの冒険」、その後1。私の発想について、自己確認のため、纏めてみました。


    南木です。
    思うところがあり、私の発想について、自己確認のため、纏めてみました。
    長いし、相当宗教的、思弁的ですので、一般向きではありません。
    興味のある方だけ読んでください。
    とは言っても、
    こうした事に深い関心をお持ちの同志も少数おられる事に気付きましたので、
    今後不定期で連載するつもりです。
     
                      「ゴータマ・シッダールタの冒険」、その後1
                                            
                                      (序)             南木隆治
                                       
    私は日本人であり、祖国とその歴史があって私が存在していると言う事実を疑わない。
    日本には日本を成り立たせている国家の霊、天皇を中心とした神々の秩序がある。それはあらかじめ準備されたもので、人間がつくったものではない。私は唯物論者ではない。まず精神の世界、神仏霊界が我々の認識の彼方にあり、その働きによって宇宙も、世界も、日本も、私たちもできた事を確信している。
     
    私は日本人だからこうして日本を日本精神によって守ろうとしているが、もし私がアメリカ人として生まれたら、神の秩序として彼らが信ずる「自由と民主主義」の理念を守る事を、同じ情熱を持ってしたかも知れない。これは他の国や集団についても言える事で、私は日本の思想が格段に優れていると思うが、かといって他国の思想を排斥する気はなく、それぞれの国の愛国者を深く尊敬する。およそ優れた思想や、宗教は言うまでもなく、人間がつくったものではない。あらかじめこの宇宙に精神としてあったものだ。それが人間界に降りてきて、今の形になったのである。芸術も同じであると私は思っている。
     
    私は保守活動をしてきたが、保守同士が、まるで左翼セクトのようにほんの些細なことで対立し、敵対するまでにいたる状況が、時として起きる事に深く憂えるところがあった。
     
    私は五十歳代の終わりになって、私の思想を今一度整理したくなった。それには、私が若い頃書いた私の著作の続きを書かねばならない。
     
    私は昭和二十八年に生まれた。そして、22歳、大学生活の終わり頃、認識の構造についてある重大な事に気付いたと思った。これがなければ私は、民間企業就職を1年で辞めて高校「倫理」で採用試験を受ける事はなく、恐らく教師にならなかった。
    気付いたことは我々人間には五感によっては決して知り得ない彼方の次元があり、それはどのような方法によっても想像すらできない認識の彼方であると言うことだった。もちろんそれを「在る」と言う事はできず、「無い」とも言えない。なぜなら、「在る」、「無い」と言えばそれは認識の対象である。本当の彼方は、人間の認識の対象の彼方であるからこそ、真の彼方である。それで私は通常の認識の対象でないその次元を「反世界」と仮に名付けた。
     
     私は大学生の頃、特定の宗教を信仰していたわけではなく、不明瞭な信仰心は幼い頃からあったが、それは自覚化されたされたものではなかった。むしろ若気の至りから、日常の物事の判断に関しては唯物的思考の方が強かったであろう。
     私が「反世界」の次元に気付いたのは、そのような唯物的思考の矛盾が、既にそのころ私の根本の何かを脅かしているとの無意識の心の力が働いていたのかも知れない。
    あるいは「反世界」を私に気付かせてくれた「反世界」そのものからの「恩寵」のようなものが既にそのころ、私にもたらされていたのかも知れない。
     
    大学を卒業して10年以内にこの「思想」を纏めて発表するとの友人との約束もあり、 私はそれを一冊の本に纏め「ゴータマ・シッダールタの冒険」と標題を付けて、昭和六十二年九月、書店で一般に販売した。当時二千冊印刷し、私は既に府立高校教員であったので、生徒たちがおもしろがって買ってくれた事もあり、また、一部で評判ともなり、千数百冊が売れた。そして、私の本は宗教書、あるいは哲学書として読まれたので、宗教界の方や、ヨーガの修行をしている方の中でも、神秘的な認識の次元に関心を持たれる方々との交流が生まれた。この本の主たるテーマは「悟り」とは何かであった。
     
    大学を卒業した頃も、あるいはこの本を出版した三十四才の頃も、私は政治的には保守であったが、今のような保守活動をしていたわけではなかった。私が保守活動をはじめたのは四十歳頃、大阪府立学校の教諭として奉職する中で、我が国の公的組織そのものが如何に反国家的な、亡国の左翼思想に洗脳され、支配されているかに骨の髄まで気付かされた事によっている。四十歳は誰もが組織で中堅となり、将来の進路を自他共に問われるときである。
    私は公立学校教員としては茨の道である事を自覚しつつ、保守の立場からの教育委員会批判を公然とはじめ、そう言う活動をしながら生きてゆく事を決めた。
    そう言うわけで、この本「ゴータマ・シッダールタの冒険」が書かれた30代前半頃は、私には現在の自分への予感はなかった。この本は1970年代に流行した「現代思想」の言葉で書かれており、今となっては進歩派思想の持ち主もあまり使わない言葉が散見される。また私はその当時の読者を想定して、決して単なる宗教書としては読まれないように、また唯物論者にも違和感なく本の世界に入ってもらえるよう気を遣って書いた。できあがった本は、宗教的でありながら、全く宗教的でない不思議な本となった、そして私はこの本は「道楽」で出版したものであるとはじめに断りを入れた。そうして出版して、何かを強く訴えながらも、一種の韜晦の状態を保つ事が、私が当時密かにめざした事だったのかもしれない。
     
    さて、話は「反世界」に戻る。
    この本を書き上げた当時は今の位置から言えば、自分で書きながら、「反世界」について五割しか自覚ができていなかったと思う。恐らく書物の持つ韜晦は、そのまだよく分かっていないところがある事から来ていた。そして、その後の人生は、残りの五割を自覚するために在ったのだと今は気付いている。その中で私の保守活動も迷いのない道を見つけることになった。これもまた恩寵であると今私は感じている。
    人生はどこまで行っても修行であり、修行が終わる事はない。
     
    「反世界」の次元に気付いていなければ、多分私は今より遙かに迷いの多い人間であり、そして、全く違った人生を歩んでいたであろう。
    「反世界」は人間の認識の彼方であり、どれほど想像しても、それ自体をおぼろげに浮かび上がらせることすらできない。世界一頭の良い人も、宇宙人がいたとしても、それ自体を見る事はできない。
    よって、もし、「反世界」が神仏の住居であるとすれば、人間は直接神仏を見ることはできないと言うことになる。そしてその通りである。そうであるからこそ、神仏は何かの化身として、あるいは何かの気配として、あるいは何かの痕跡として、あるいは奇跡として、その存在をお示しになる。風を感じても、風そのものは見えないように。偶像崇拝の禁止はそこから来ているのだが、そのことは詳しく著作に書いた。
     
    「反世界」に気づいた初期に、「反世界」が「神仏の住居」そのものであることにどこまで気付いていたか、今では明確でない。しかし、気づきはそれだけではまだ不十分なのだった。
     
    実はこの世界の総体、この宇宙そのものが、そのまま、「反世界=人間の認識を超えた神仏の世界=イデアの世界」から、恩寵として、この世として出現しているものである。今は私はこの事を疑っていない。この世が存在する根拠は実は「反世界=神仏の住居」にある。この世をいくら探し回っても、存在の最後の根拠を見つける事はできない。これは最新の物理学の知見とも一致するだろう。存在は最終的に観測し尽くすことはできないようになっている。よって、誰が、何を、どれほど断定しても、そこには必ず何かの見落としがある。
     
    そのことへの気づきの度合いが強まり、気づきの時間が増えるにつれて、私は、本当の宗教と、邪教をほとんど間違いなく、その人物や、組織から一瞬で見抜けるようになった。この本を書き上げた頃、私の意識はまだこちら側にいて、「反世界」の次元を見ていた。今はほとんど「反世界」と「この世界」の渚に自分を持っていって、そこで息をする事ができるようになった。渚より向こうに行くことはできない。
    そうして、保守活動を続ける中でも、私はますます宗教的な人間として齢を重ねるようになった。
     
    人間の意識は、通常、自らを生かしてくださっている「神仏」を認識の彼方としてしか感受できないため、自身の根拠をなかなか見つける事ができず、何か人生の虚無性に気付いたような錯覚を持ちやすく、「めくらめっぽう」の限りない逃走を企てる傾向がある。ところで、その逃走も、自分の決断で決めたような気になっていても、実はすべて「神仏」からの何らかのお計らいが為されている。この神仏の根源の働きについて、人はなかなかそれに気付かないようにできている。宗教的な人とは、それに気付いた人である。日本人が日本人となり、アメリカ人がアメリカ人となるのは、簡単に言えばすべて神仏が決めた事だ。あらかじめそのイデアは宇宙にあった。すべては神仏の意志の表れである。唯物思想で汚染された現代人よりも、何事も神仏の定めと直感していた昔の人の方が、宇宙の真理に遙かに近い場所にいた。
     
    「ゴータマ・シッダールタの冒険」の本文(付録に絵が付いているので)の最後の章は「天皇(スメラミコト)の漂流」で終わっている。世界にある様々な「共同性」(現代思想の言葉)の中で、自分は天皇を守ってゆく立場でいたいという、ささやかな意思表明を私はしている。そしてその願いが叶って、私は今の場所まで来た。
     
    「ゴータマ・シッダールタの冒険」南木隆治著 は既に絶版であり、アマゾンでも古本が数冊しかない。時事的な評論は一定の「季節」が過ぎればすべて何か陳腐な書物となってしまうが、この種の思想書は時間が経っても全く色あせないのは、自分で言うのも変だが不思議だ。保守活動家になる以前の本だが、今もその根本思想は変わらない。この思想の上に私は「日本」に気づき、「日本」を主体的に選択して、今の活動をしている。そう言う意味で私の底は二重になっていて、一重ではない。そして「和をもって貴しと為す」と喝破された聖徳太子の思想は、この二重の底を、強固な一枚の底に収斂させる思想であると深く感動している。
     ある人が、保守で熱心な仏教信徒の方に「なぜ仏教者が愛国運動をするのか。仏教の慈悲や、利他の思想と愛国はどうして繋がるのか」と質問した。その人は、思想の底は二重でありうる事をご存じないのだ。これは仏教だけでなく、キリスト教や、他の宗教でも、真に「反世界」の次元まで見すえた宗教者なら、皆同じのはずだ。
    自分の存在の根底の気持ちと、愛国の気持ちとの間の溝に悩む方はきっと多いと私は思う。実は悩むことは何もない。それは人間の生の根底にある意志が二重である事に気付いていないからである。宇宙存在としての自己は神仏の慈悲の海に投げ出されている。これが最初の底。その慈悲の海で、我々は何かを選ぶ。ここに常に迷いが生じる。けれども、何かを選ぶという事が実はもう一つの底を決めると言う事であるから、悩むことは何一つ無いのだ。何を選んでもすべて正しい。なぜならそのすべてが慈悲の海に属するものだからである。よって、誰の人生もすべて正しかったのだと言って良い。
     
    先頃、大阪市内で、石黒大圓氏主催の「御堂筋日の丸行進」に参加したときの事である。日の丸行進は、祖国の繁栄を祈りつつ、笑顔で、今はあまり歌われなくなった文部省唱歌を歌いながらする行進である。
    いつもマイク嬢が「この日の丸行進は、日の丸を顕彰するために行っている行進で、何らかの政治的主張を目的とするものではありません」「自衛隊は日本の誇りです。警察官の皆さん、有り難うございます。」と言いながら行進を行う。私はチラシ配りをさせてもらっていて、回を重ねる毎に効果が上がり、多くの方がチラシを受け取ってくださるようになってきていた。ところが、その日は、韓国領事館前で、参加者の内の少数の方が(大統領の天皇侮辱発言に怒るのは当然だが)声を荒げて、韓国批判を不規則発言でされた。そして相当数の方々がそれに声を合わせた。すると急にチラシを受け取る方が減り、多くの通行人から引かれてしまった印象を私は受けた。なぜだろうか。主催者の石黒大圓氏も宗教家であり、これは石黒氏が無意識で、直感的に選ばれた「政治的主張はしない」行進の仕方なのだが、いわば二重の底を持った行進である。人間への根底的な慈悲心と、祖国への愛の二重の底である。我々が何らかの活動をするとき、その底が二重で在るのか、単純に一重であるかので、その信頼度と、効果は大きく違ってくる。そして、最後にそれを深い一重の底に収斂させる思想は、先に述べたように聖徳太子の思想にある。そして日本人の心の中に、二重の底は皆在ると私は思う。通行人が「引いて」しまったのは、存在の二重の底を感受できる行進だと思ったら、突然ごく普通の政治的デモになってしまったからである。物事を主張するとき、その底をどこにおくかと言うことは非常に重要である。特に我が国においては。
                     (平成24年9月26日。以下、次号)
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    投稿者:   みなき たかはる <
    dpait620@kawachi.zaq.ne.jp>
    Date:  2013年5月25日(土) 午前4時25分
    タイトル:  (資料2)昨年9月頃、拙著をお読み下さった皆様にお付けしたメモ


     
    (資料2)昨年9月頃、先のメールを配信した頃、拙著をお読み下さった皆様に、本をお送りしたときにお付けしたメモ。
    以下の通りです。これを印刷したものを本と共にお送りしました。
     
     
    以下資料です。書いたのが平成24年(2012年)9月頃です。
     
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    各位
      
                      「ゴータマ・シッダールタの冒険」について
     
    この度は拙著をお読みいただけるとのこと、有り難うございます。
     
    「ゴータマ・シッダールタの冒険」は
    若書きしたもので、先のメールの文章で書いたように韜晦と受け取られる表現も多いのですが、その当時はこのようにしか書けなかったし、唯物論の人々が主たる読者で有る事を想定して書いたので、今読まれると、相当左翼的だと感じられるかも知れません。
     
    また実質無神論の本だという風にも読めるように書いています。
    用語も70年代流行の「現代思想」の用語です。
     
    ただ、私の発想の根底の構造は今も同じであり、今は保守活動家となりましたが、それは私が日本の危機を知った事によって、日本人であることの自覚が深まったからです。そして、歴史の中に、私の気づきと同じものをたくさん見つけたからです。
     
    けれども、仮に私がアメリカ人で、この本に書いた発想を持ったとしたら、(きっと同じ事に気付く人は世界中にたくさんいると思いますが)私は「自由と民主主義」が世界の普遍的原理となるにはどうしたらよいかを考えて、アメリカを救おうと思ったでしょう。もちろん今のアメリカはそれが不十分で、それによってアメリカはイスラムとの確執を持ち、世界中で苦労しているのですから。
     
    そう言う意味で私の発想の底は2重になっています。
     
    私が気付いた彼方(反世界)について、徐々に分かってゆくのが私の後半生でした。
    そこが神仏の住居だとはじめからうすうす分かっていたが、はっきりとそういう風に、それを人に言う事に決めたので、新連載をはじめる気になったのです。拙著ではむしろその事を、可能性としてしか語っていません。
     
    神仏の次元から見れば、この世界、この大宇宙全体が一つの素粒子ほどのものでしかないと思います。しかも、その素粒子の中で起きるどんな小さな現象も神仏はピンセットでつまむようにして、何でもできると思います。
     
    聖徳太子は本当に凄いとつくづく思います。宇宙論と、道徳と、国家を一つに結んでおられます。
     
    究極の信仰は、究極の無神論と紙一重です。この世のすべては神によらぬものはない、とキリスト者が言うとき、それであれば、神は居ても居なくても結局同じという風に無神論者は考えます。ここが紙一重で、生きるか死ぬか、あれかこれか、ぎりぎりのところです。
    聖徳太子が、「世間嘘仮唯仏是眞」と言われたところです。
     
    以上のようなことは続編の中で書きます。
     
    有り難うございました。
    今後とも、何卒宜しくお願い申し上げます。
     
    平成24年9月末
                                 著者 南木隆治 拝


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