「ゴータマ・シッダールタの冒険」について(平成25年7月8日の追加説明)

2013.07.15 Monday

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     目次(「南木クラブ・宗教と哲学の部屋」)

    「ゴータマ・シッダールタの冒険」について(平成25年7月8日の追加説明)
     
     
    最近、新しくこの本を読んでくださる方向けの説明です。
    少し新しい説明(特に青の部分)をしていますので、皆様のご参考になさってください。
     
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    この度は拙著をお読みいただき、有り難うございます。
     
     
     
    「ゴータマ・シッダールタの冒険」は若書きしたもので、当時唯物論者的思考を基本とする読者を主たる読者に想定して書いたので、今読まれると、相当左翼的だと感じられるかも知れません。
     
    しかし、この本は、彼岸の入り口をこちら側から見れば、どう見えるかということについて、相当詳しく書けていると、今でも思っています。
     
    無神論の方が読んでも、違和感なく読めるはずで、読後は必ず彼岸に思いをはせるようになられるでしょう。
     
    用語は70年代流行の「現代思想」の用語で書かれていますが、今も有効ということは70年代の枠内の内容ではないと私は思っています。
     
     
     
    私の自覚している「世界認識」の構造の「底の底の部分」は今も同じであり、今は保守活動家となりましたが、それは私が日本の危機を知った事によって、日本人であることの自覚が深まったからです。そして、私はその後、日本を救う活動をしなければならないと大真面目に考えるようになりました。そうすると、この本で書いた「底」の自覚の上にどのように活動すればよいかが見えてきました。
     
     
     
    ですから、仮に私がアメリカ人で、この本に書いた発想の自覚を得たとしたら、(きっと同じ事に気付く人は世界中にたくさんいると思いますが)私は「自由と民主主義」が世界の普遍的原理となるにはどうしたらよいかを考えて、アメリカを救おうと思ったでしょう。もちろん今のアメリカはそれが不十分で、それによってアメリカはイスラムとの確執を持ち、世界中で苦労しているのですから。キリスト教、イスラム教の対立が続くというようなことは人類の宗教がまだまだ彼岸を完全に明示できていないからだと私は思っています。
     
     
     
    私が気付いた彼方(反世界)について、徐々に分かってゆくのが私の後半生でした。
     
    そこが神仏の住居だとはじめからうすうす分かっていたが、はっきりとそういう風に、それを人に言って良いとお許しが出た感覚があるので、新連載をはじめる気になったのです。「ゴータマ・シッダールタの冒険」では、その事を、可能性としてしか語っていません。
     
     
     
    では、はじめから、「信仰」の立場だけから出発すればよいではないかという方もおられるでしょう。それはそれで良いと思います。けれど、私が拙著ではっきりと示したその「底」を文字通り徹底して自覚した上での「信仰」か、そうでないかは、実はきわめて本質的な違いであって、その違いこそがすべてだと私は言いたいのですが、それは今後の私の全思想展開をご覧いただければ、きっと分かっていただけるでしょう。
     
     
     
    究極の信仰は、究極の無神論と紙一重です。この世のすべては神によらぬものはない、とキリスト者が言うとき、それであれば、神は居ても居なくても結局同じという風に無神論者は考えます。ここが紙一重で、「底」を見たかどうかで、認識は180度ひっくり返ります。
     
    素朴で深い信仰心と、究極の「底」を見た信仰心は、実は全く同等の働きをすると私は思いますが、何かのきっかけで、「素朴な信仰心」が崩れたとき、決して崩れない「底」を見た次元の信仰心との差は歴然です。そのとき「信仰」はもはや「信仰」という言葉では説明できない新たな自覚を獲得できると思います。
     
     
     
     有り難うございました。今後とも、何卒宜しくお願い申し上げます。
     
     
     
    平成25年7月9日

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