『転生と、人間の本質について』 (第3回配信)

2013.07.01 Monday

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    目次(「南木クラブ・宗教と哲学の部屋」)

    雲(うん)黒斎(こくさい)著
    「あの世に聞いた、この世の仕組み」(サンマーク出版)
    「極楽飯店」(小学館)
     
    は両方とも、すぐに読める軽い書物です。
    その内容は、前者は雲氏が重い「鬱病」から回復する過程で、自身の「守護霊」を自覚できるようになった話で、実話として語られており、この方はそれ以来「守護霊」とコンタクトしている人間として、講演なども続けておられるようです。
    後者「極楽飯店」は小説で、地獄と極楽の境界を、実際に体験できるような話として、大変現代的な地獄や極楽が描かれていて、これも楽しく読める読み物です。特に面白いのは、次に「転生」するときの選択肢として、「守護霊」になるという選択肢も与えられているという話になっているところです。
    私はこの方は本当に「守護霊」をいつも感じ取り、その「守護霊」と対話しておられるのだと思います。
    そして、転生を深く信じるようになられ、ご自身の「守護霊」とずいぶん会話されて、その結果をうまくフィクションにアレンジされてこの作品を書かれたのだと思います。
     
    この「極楽飯店」は、「道徳律」としては、『「利他」の心を持てば極楽へ、自身の損得だけを考える「我執」に支配されれば地獄へ落ちる。』という、非常に基本的な事が述べられているだけですが、ほとんどの部分を違和感なく読めました。
    ただ、私が一箇所だけ違和感があったのは、「極楽飯店」で地獄からの脱出を鬼に認めてもらうようになる件です。
    それは、自分では絶対に食べられない長い箸で、自分の向かいの人の口に食物をお互いに運び合うことで、はじめて「ご馳走」を食べることを許され、「利他」こそが正しい心である事を自覚し、「我執」について「反省」を完成し、光の世界へ入ってゆくところなのですが、ここの部分があまりに形式的すぎて、どうしてもっと内面的な、他の人への、震えるような同情とか、共感の描写が無いのかな・・・と感じたことです。
    お互いがお互いに深く共感し、お互いの人生が自分の人生であるかのように感じ、相互に深い親愛の情を感じ合うような描写がほとんどありません。
    そこがちょっと物足りなかったところで、この程度の形式的な「利他」の認識で本当に極楽に行けるのかな・・・と言うのが私の正直な印象でした。
    この程度で「守護霊」になるから、その「守護霊」に付いてもらった人も、なかなか苦難から脱出できないのでは・・・、と言うようなことを感じた次第です。
     
    さて、本題に移ります。
    拙著「ゴータマ・シッダールタの冒険」で詳しく分析したように、我々は、理性によっても、感性によっても、感覚によって、あるいはそれ以外のいかなる認識の方法によっても、この世の外を「明確」には認識することはできません。よってこの世の成り立ちの究極の始まりや、その終わりを明確に認識する事はできません。科学がいくら発達しても、宇宙人が別の思考法でこの問題を考えたとしても、結論は同じです。
    どれほど深く追求しても、最後にそこには薄明のような、ある種の霧のかかった領域が広がり、その向こうへ行くことはできません。
    けれど、その境界があるのだと言うことは、深く自己探求をすれば、必ず認識することができます。その境界面から向こうを私はかつて『反世界』と呼びました。
     
    この認識を得た後ですが、ある時、それは「錯覚」かも知れないが、明らかに向こう側から何かのメッセージを受け取った、あるいは向こう側と何かのコンタクトをとれたと感じ取れる瞬間があります。あるいはそれが持続する状態に入ることもあります。
    この世での認識の仕方しかできないが、この世のものではない向こう側の何か、としか思えない次元に触れたような気がする事があるわけです。
    これが宗教体験であり、神秘体験です。そして、もしかしたら何もないとはじめは見えた向こう側こそが充実した世界で、こちら側はほんのちっぽけな砂粒ほどの世界かも知れないというコペルニクス的転回の感覚を持つ事があるわけです。
    その多くは単なる錯覚であったり、あるいは単なる病気であったりしますが、そうでない場合があり、深く深く瞑想をしたり、ずっとある精神状態について考え続けていたりすると、様々な体験を重ねる事もあります。
     
    ただし、体験と言っても、現象として、後ろから、あるいは物陰から聞こえてくる声、自分の中から聞こえる声、これらはほとんど自身が精神の病気であるか(統合失調症)、あるいは何らかの精神が自分に働きかけているにしても邪悪、または低劣な精神です。
    これとは違って上方よりから、あるいは真っ正面から聞こえる声、そして同時に真っ正面に光を感じれば、それは本物の崇高な何かに触れた可能性があります。けれどこれらの詳細はまた、「修行」について述べるときに追って展開しましょう。
     
    元に戻ります。
    向こう側の世界(反世界)を「無」と判断すると、世界は物質でできている事になります。
    けれども、向こう側の世界が「無」であることは誰にも決して証明できません。
    「唯物論」とは実は最も思いこみの激しい思考法であって、中途半端な知性の結果出現しているもので、自分が見つけられなかったものは存在しないとする単純な思考法です。これが物質的繁栄とパラレルに蔓延して、現代の人間社会の隅々まで広がり、物質的豊かさと真逆に、人間の魂の不幸を押し広げました。
    「自分は永年生きて、神にも、仏にも出会わなかった、だからこの世に神仏はない。この世は物質で、自分の思考もその物質の相互の働きの結果生まれている。」と日常、本気で考えている人は実に多く、もしかしたら今の日本では過半数を超えているかも知れません。
    こういう人でも重い病気になったりすると、最後には神頼みをするようになったりするので、逆に言うと、心の奥底まで「唯物論」の人もまた逆に少ないのではないかと思います。
     
    もし、向こう側の世界(反世界)が「無」でないのであるとすると、どうなるでしょうか。それを我々は認識できない、けれど「無」ではない。と言うことは考えられる限りのありとあらゆる可能性がそこにはあり得る。そう言う風に、一瞬にして思考の大逆転現象はいつでも起こりえます。
     
    「無」という言葉で我々は「無」を想像できます。それは何もない世界です。しかしながらそこには意識の対象としての「無」がまだ残っています。つまり、われわれはそのとき「無」を想像しています。

     想像できるものの一切は『反世界=向こう側』ではありません。この事に気付くと、向こう側について、何か予感をつかめます。

    「時と永遠」という言葉がありますが、西洋の思想では、どれほど長い時間が流れても、それは「時」に属しており、「時」の内部であり、『永遠』ではありません。『永遠』は「時」の彼方にあり、「時」を超越しています。この『永遠』の次元が『向こう側=反世界=あの世』です。
     
    宗教に目覚める、あるいは宗教的回心というものの本質は、この向こう側の世界(反世界)の驚くべき広がり、絢爛さ、豊穣さ、広大無辺の巨大さ、と言ったような次元に、ある時ふと気付くと言うことです。
     
    人類がこれまでありとあらゆる宗教で考えてきた向こう側の世界は、まだまだそのほんの一部で、その数十万倍、いや数億倍の数億乗の世界がそこに展開されている事まで、一旦その世界に目覚めれば、その可能性を考えることができるようになります。
     
    それはどんな世界でしょうか。
    この文章を読んでおられる皆さんが想像される全てがそこにないはずがありません。
    全てあるでしょう。
    インド的三千世界どころか、その数億倍、無限の世界がそこに展開されているでしょう。
    例えば、「平行宇宙論」という仮説があります。
    ある瞬間ごとに、我々の宇宙はこの「現在」を進んでいるが、別の「現在」へ進む宇宙もあり、そこでは別の時間が進んでいるという考えで、これだと、時間そのものが爆発していて、自分が既に死んでしまっている宇宙も、生まれてこなかった宇宙も、ありとあらゆる宇宙も有る事になるでしょう。
    「大東亜戦争に勝った日本」が存在する宇宙もあり、日本が消滅してしまった宇宙もあるでしょう。
     
    あるいはまた、そうではなく単一の設計図に基づいた、単一の時間だけが流れている、その設計図だけでできている向こう側も考えられます。
    死んだら、魂はそこへ帰るという風にも考えらこともできます。
     
    何をどう考えても、もともと向こう側が「無」でないのであれば、無限の可能性をいくらでも想定できるので、何をどう考えても、それは絶対に間違いとは言えないのがこの「向こう側の世界」の本質と言って良いでしょう。
     
    人間の脳はいわば受信機で、向こう側の世界で起きることを受信しているのだという考え方もありますが、それも絶対に間違いと誰も証明する事はできないでしょう。
     
    誰もが我々が生きているこの世とは違った次元があり得るかも知れないと、心の奥底でうすうす知っています。
    その次元があることにはっきりと気付けば、その向こうが結局「無」であると考えようと、「無限」の可能性を考えようと、ある種の「深い自覚」を得たことは間違いありません。
     
    ここから、ある人は深刻な「虚無主義者」または、深い「無神論者」となり、ある人は、それを乗り越えて「宗教的回心」を遂げます。
     
    どちらが正しいのでしょうか。
    『向こう側=彼方=反世界』が虚無である事は何度も繰り返し説明しているように、絶対に証明できません。
    ですから、「虚無主義」「無神論」は中途半端な認識が得た結論です。これは繰り返し述べておかねばならない重要な点です。
    科学でその立場をとるものは2流、またはエセ科学です。
    科学はこの世と、向こう側との渚のような場所を、この世の内部で、そのぎりぎりまで探究するもので、唯物論とは相容れないものだと私は考えています。
    けれども、向こう側が「無」である可能性の完全な否定は、少なくとも論理的にはできません。。
    ですからその可能性まで含めて、「懐疑論」「不可知論」あるいは「信仰」のどこかの位相に心を置くことが、人間の本来のあり方であると私は思います。
     
    そして、本来のあり方から、より良いあり方へと、心を鍛えてゆくことが正しい修行の姿であるのなら、宗教的立場に至ることが人類が選択すべき正しい道であることは疑いがないと私は思います。そうでなければ、人類は滅びてしまうでしょう。
     
    私は特定の宗教に肩入れはしませんが、向こう側の世界は無限に広がっている神仏の領域であると考えて、物事を判断してゆく宗教的立場をとりたいと思います。
    そして我々日本人が慣れ親しんでおり、全ての人類がその初期には慣れ親しんでいたと思われる、あらゆる場所に神聖さを感じ取る「八百万の神々への信仰」にこそ、我々人類を救済できる圧倒的な思想上の優位性があると感じているわけです。
     
    「虚無主義」「無神論」に人を導こうとするあらゆる思想は、「悪魔の思想」「悪魔の誘惑」と定義して間違いないと思います。
    「共産主義」はその典型的な悪魔の思想です。
     
    さて、「極楽飯店」に戻ります。
    このお話も、また「守護霊」についての記載も、そもそも死後の世界があり、魂は「輪廻転生」を繰り返すと言う思考が大前提になっています。
    「輪廻転生」はあるのでしょうか。
     
    仏教では「輪廻転生」からの解脱が、「悟り」、つまりもうこの世に生まれてこなくても良いレベルになる事を究極の目標とする考え方もあります。
    どう考えたらよいのでしょうか。
     
    あらゆる精神がこの世の物質の秩序から生まれたのではなく、逆に、まず精神が向こう側にあって、その結果、この世のあらゆる物質の秩序が生み出されているのであれば、その精神の一部を構成する我々の心も、もともとこの世のものではないでしょう。
    そう考えれば、転生はあって当たり前という事になります。
     
    物質は観測可能なものとして抽出する事ができます。しかし書物に書くことはできても、そのもとの精神の働きを、それそのものとして、物質のように目の前に取り出すことはできません。それどころか、我々は次の瞬間に自分が何を思いつくのかと言うことすら、一瞬の未来も予見できないのです。心の本質がこの世のものでないのなら、それは当たり前のことです。
     
    私はここで、多分誰も言っておられない考え方を皆さんにお伝えしておきたいと思います。
    それはこういう事です。箇条書きにしておきます。
     
    「輪廻転生はある。ただし未来に転生するとは限らない。過去にも転生する。向こう側の世界で一方向に時間が進んでいるとは限らない。」

    「人間は無限に転生を繰り返す。そして多分人間はたった一人しかいない。
    その同じ人間が数限りなく過去にも、未来にも転生を繰り返している。恐らく男女も定まらない一人の人間の魂しか存在しない。
    その魂が永遠に転生を繰り返して我々の世界を形成している。」

    「目の前にいる人は全員が、未来の自分か、過去の自分だ、と考えなければならない。」

    「貴方が人を殺したとすれば、それは自分を殺したのである。」

    「貴方が誰かの命を救ったとすれば、それは自分の命を救ったのである。」

    「貴方が人を愛したり、恨んだりすれば、それは自分を愛し、自分を恨んだのである。」

    「貴方が誰かに辛い思いをさせ、悲しませたとすれば、それは自分に辛い思いをさせ、自分を悲しませたのである。」

    「お釈迦様が『天上天下唯我独尊』と仰ったのはこの事である」

    「マザー・テレサが『目の前で苦しんでいる人を見れば、それはイエス様であると思わねばならない。』という霊感を得たのはこの事を感じたからである」
     
    もっと分かり易く例えれば、転生とは『万華鏡』のようなものです。
    万華鏡を光の方に向けてくるくる回してみます。次々と姿を変える美しい模様を眺める事ができます。
    同じ模様は二度とありません。同じ人生が二度とないように。
    けれど、もともとあるのは、その「原質」となる、美しい紙片や、セルロイドの破片だけです。
    人間の場合この「原質」とは『人間のイデア』を意味します。
     
     
    守護霊も、背後霊も、自縛霊も、浮游霊も、いわゆる幽霊も、何だってあるでしょう。
    もともと精神はこの世のものではないのだから、あの世で出会う全てのものに、何らかの契機で、この世で出会ってしまう可能性はあるでしょう。
    けれど、そんなことはたいしたことではありません。
    そうではなくて、その守護霊も、背後霊も、自縛霊も、浮游霊も、いわゆる「幽霊」も、もしそれに出会ったとしたら、その全てが、貴方の転生した姿以外の何者でもないと言うことなのです。
    逆に神々しい、神聖なものと出会えたとすれば、それもまた貴方自身である可能性があります。
    人間はそうして無限に転生しています。多分たった一人の「人間」のイデアが。
    22歳である次元に気付いてから38年経過し、次第にそう強く私は感じるようになりました。
     
    ではそもそも『生命』とは何でしょうか。
    次回はそのことについて書こうと思います。
     
    (以上第3回配信)
          
    http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/ (南木の資料室)
    http://star.ap.teacup.com/minaki/ (南木の資料室別館)
    南木隆治(みなきたかはる)
    ----- Original Message -----
    From: K
    Sent: Tuesday, June 11, 2013 9:59 PM
    Subject: Re: (第2回配信)当メーリングリストの運営につい FRe: [st-minakiclub][00007] 第1回目の配信

    [南木様へ。次回のメールを書くときの参考としてください]

    >K君が送ってくれた
    >雲(うん)黒斎(こくさい)著
    >「あの世に聞いた、この世の仕組み」(サンマーク出版)
    >「極楽飯店」(小学館)
    >2冊とも読了しました。
    >とても面白かったです。
    >次回はこの2冊の本の感想を書きます。

    Kです。

    これらの本では「守護霊」が登場し、問題を大変わかりやすく説明するという形式をと
    っています。
    説明された中身についてはさほど違和感がないのですが、「守護霊」が「真理」語ると
    いうところに「危さ」を感じます。

    単に説明上のテクニックとしてそうした形式をとっているというならば納得もできます
    が、
    作者はかなり実態化されたものとして認識していると思われるところが気になります。
    つまり本当にそこに「守護霊」がいて対話していると思われます。

    少し前の話しですが「宇宙人」とコンタクトできるというというひとが幾人もでてきて

    「宇宙人」が「真理」を語るという本が何冊もできて評判をよびました。

    なんとなくそれと似ている気がするのです。

    語られる「真理」があるとして、それが「守護霊」や「宇宙人」によって語られるとい
    うことのなかに、
    何か「危い」ものを感ずるのですがいかがですか。

    二冊の本の感想を書く際に参考にしてください。

    以上

    『南木倶楽部 宗教と哲学の部屋』メーリングリストのアドレスはこちらです。
    http://groups.yahoo.co.jp/group/st-minakiclub/

    南木倶楽部・宗教と哲学の部屋最初のページ

    http://minakiclub.jugem.jp/


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    http://minakiclub.jugem.jp/?eid=8

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    2017.07.17 Monday

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