向こう側の世界

2014.11.13 Thursday

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    向こう側の世界はどこにあるのか。(1)


    向こう側の世界はどこにあるかと探し回っても、私たちが探している世界は全てこちら側の世界の内部だから、
    いくらこの世界の内部を探し回ってもこの世界の外を知ることは出来ない。

    例えば「霊」が見える人がいたとして、その見えている「霊」は、仮に向こう側から来たものだとしても、こちらの世界でいわば受信された向こう側の電波の受像のようなもので、向こう側の存在そのものではない。

    あらゆる認識の根源をたどってゆくと、感覚にはこれ以上感じることのできない限界があり、あらゆる測定器にも、これ以上測定できない限界がある。感覚でもなく、測定でもなく、感覚も測定も、その全てがはじめから無効になってしまうような限界が、実はあらゆる場所に遍在している。

    ここにも、そこにも、あそこにも、それは普遍的に、この宇宙の果てまで広がっている。
    それこそが向こう側だが、その向こう側を表現する手段はない。

    それはいわば無い者だからこそ、実はある。
    それは論理では到達できないと通常は考えられている。
    けれども、論理によって、論理の彼方を表現することはできる。

    平面にX軸、Y軸を書いて、関数のグラフをつくったとき、紙の上に鉛筆で線は引けるが、本当はそれは言葉と同じで、原点(0,0)は書くことが出来ない。それは無限小の小ささだが、どれほど小さくしても、まだ小さくしたらない抽象的な点である。本当はそれは観念の中、あるいはイデアの世界にしか存在しない「点」である。

    「反世界」=「向こう側の世界」の入り口は、このグラフの原点と同じように、この我々が住む時空のありとあらゆる場所に、無限にある。しかしそれはいわば抽象的な原点と同じで、決してそれ自体に到達することはできない。

    それはどこにでもあるので、普通はどこにも無いと思われている。
    しかし実際に『反世界』の次元を知ったものから見れば、どこにでもある。

    あらゆる宗教の根源はここにある。
    神仏はそこに住んでおられる。

    その『反世界』の大きさは、我々が知っているこの大宇宙を一つの素粒子と考えたときの大宇宙の大きさに匹敵するほどだと思われる。


    『反世界』から見れば、
    恐らく我々の知っている大宇宙は一つの素粒子のようなものだと思われる。

    無限に「向こう側の世界」は広がっていて、我々の世界はその中に浮かんでいるのだから、我々も、その向こう側の世界にも、同時に本当は住んでいるのだが、そのことに気付かないだけである。


     

    例えばこの金箔の中に浮かぶ太陽の絵だが、
    この太陽が、我々の住む世界全体だと考え、その向こう側へ心身が突き抜けることをイメージしてみよう。
    そのとき『反世界』=『彼岸』=『神仏の世界』はこの金箔の全体によって表現されると考える事もできる。しかし普段は我々は、我々の世界全体がこのように美しく、眩しい金色の光で充満していることにまったく気付いていないのだ。

    この光は闇の中にもまったく等しく満ち満ちている。

    次回はこの点について詳しく述べることにしよう。




     

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