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2017.09.18 Monday

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    『金縛りの解き方と悟り。「神秘体験」と「修行」について。卒業生B君との対話2。』

    2013.07.24 Wednesday

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      『金縛りの解き方と悟り。「神秘体験」と「修行」について。卒業生B君との対話2。』


       

      目次(「南木クラブ・宗教と哲学の部屋」) 

       

      宗教と哲学の部屋



      『金縛りの解き方と悟り。「神秘体験」と「修行」について。卒業生B君との対話2。』

       

      720日のブログに発表した

      授業『カナシバリ(金縛り)の解き方と幽霊』イギリス経験論哲学 (07/20)
      に関連して、まだまだ他にも述べることがある。

       

       高校生くらいの年代には、この「金縛り」に会うことは非常に多く、二人に一人くらいは経験しているのではないかと私は思う。私は解き方を知っているので、問われれば、様々な場所で、その都度「解き方」を教えてきた。

       そして私がこの一見些細な話題を丁寧に扱ったのは、生徒が実際にそれに関心を持ち、場合によっては相当悩んでいるから、その解き方を教えてあげなければならなかった、というだけではなく、更にこの『金縛り』という現象と、その「解き方」の中に、もっと別の、人間が何か重大なことに気づく場合に訪れる「意味転換の瞬間の秘密」が隠されている可能性を予感していたからだった。認識の次元はどういう風に変わるかということへのヒントが確かにここにはある。

       

       この「金縛り」のテーマで当ブログで紹介しているのは、高校で言えば「社会科」のうち主として「倫理・社会」「現代社会」「倫理」等の授業に関連したエピソードであるが、「政治・経済」分野について言えば、戦後日本に関して、江藤淳が言うところの『閉ざされた言語空間』の「金縛り」からいかにして目覚め、本来の生命力ある「日本」「日本人」を取り戻すかということと繋がっている。

       

       しかしこのブログは本質的な「宗教・哲学」の次元を中心とするブログであるので、ここでは「政治・経済」分野のことには少しだけ触れることとして、「政治経済」分野に関する私の発言は「南木の資料室別館」をご覧頂ければ幸いである。

       さて、生徒や、卒業生の中には、自身もこの「金縛り」を私が教えたやり方で解けるようになっただけでなく、更に深く、もう一段深い「謎」、「秘密」を垣間見たのではないかと思える質問をするものもいた。先入観をどんどん増やしてゆく大人よりも、大人の一歩手前にいる高校生や、大人と言っても24歳くらいまでの非常に若い心は、かろうじて古代からの人類の思考形態の残像のようなものを残しており、時には生徒の質問の中に潜んでいる、本人も気づかぬ、わずかな影の影のようなものに気づいて、逆に私が質問する事もあった。

       

      卒業生B君との対話(重要)物と心の処理の仕方とその後の課題について。(2013.07.18)
      に登場した卒業生のB君は、読めばお分かりのとおり、大変濃厚に『精神世界』の住人の気配を持つ人で、「金縛り」の経験もあり、上記の訪問後、50日ほど後のある日、学校にまたしてもやってきて、次のような会話を交わしたことがあった。

       

      B君 南木先生。またお邪魔して恐縮です。先日は色々教えていただいてありがとうございました。本日はお電話でお話したとおり、以前授業で習った、先生が発見された「金縛り(カナシバリ)の解き方」について、もっと教えていただきたいことがあるので参りました。

       

      私 僕は授業で知っている事は全部教えているので、それ以上は何もないと思うよ。

       

      B君 そんなことはありません。同じお話でも、何度伺っても、先生の知っておられることは更にもっと深いといつも僕は感じます。

      僕が先生に勝手に私淑させてもらっているのは、それをいつも感じるからです。それが何かは分かりませんが。

       

      私 僕は何も知らないのに、君が勝手に知っていると思っているだけかもしれないよ。それに君の課題としているところは、「金縛り」程度の事柄を考えて何かが分かるような次元のことではないかもしれないよ。

      ま、いいさ、最近また「金縛り」に会ったのかね。

       

      B君 はい、これが初めてではないですが、久しぶりに先日から何度か連続して「金縛り」に会いました。そして先生の言っておられたことを思い出して、そのとおりして、一瞬で「金縛り」状態を脱しました。

       

      私 そしたらそれでよかったじゃないか。何か問題があったのかね。

       

      B君 はい、でも、その何度かの「金縛り」の内、一度不思議なことが起こったんです。もしやと思ったことがいくつかあるのですが、先生が、前回僕に勧めて下った大乗仏教的な観点からの質問では残念ながらありません。色々本も読んでいるのですが、

       結局、依然として僕は「認識の課題」の段階にとどまっているのだと思います。

       ところで、「金縛り」について、昔先生に習ったのを、ノートにまとめてきました。これでよろしいか。まず、見てください。

       

      B君がまとめた「南木先生の、金縛りとその解き方(まとめ)」ノート

       『「金縛り(カナシバリ)」というのは、眠っている最中に、何かの都合で目が開いてしまって、視神経と、自意識だけが起きて、身体は眠ったままの状態である時に起こる。

       視神経は起きているので天井は見える。けれど、腕を動かしたのも、身体を起こしたのも、夢を見ているのと実は同じ状態にある。

       例えば歩く夢を見ている時、夢の中では歩いていても、実際には歩いているわけではなくて、身体は眠っている。

       「金縛り」のとき、腕を動かしたり、身体を起こしたりしたと思ったのは「夢」を見ている状態と同じでああったと考えられる。

       腕を動かしても、それは夢の中で動かしているだけ、身体を起こしたつもりでも、それは夢の中で起きたつもりになっているだけで、実際に動かすことができない。

       腕が動いていない事がなぜ分かるかというと、腕を動かして視野に入るところまで来ているはずなのに、実際にはその腕が見えてこないから、「カナシバリ」だと気づく。数センチ身体を起こして、姿勢が変わったはずなのに、やはり1秒後に、全く動けずに、天井を見ている自分に気づくから「カナシバリ」だと気づく。

       

       そこで、南木先生は、『腕も、身体も、それを動かした瞬間に、確かに動いたという確認が難しい。動かしたはずの腕が視野に入るまでのわずかな時間や、起きると視界が変わるはずの、身体がほんの数センチ起きるわずかな時間、このわずかなタイムラグがあるから、「カナシバリ」が解けないのではないか。もしかして、動かした瞬間に、動いたかどうか確認できる身体の部分があれば「カナシバリ」は解けるに違いない』と、「金縛り」の最中にお考えになって、ついに、首を左右どちらかへひねって、回せば「金縛り」は解けることを発見された。首を回した瞬間、目は開いているので、腕や、身体と違って、意識が身体のその部分が「動いた」と錯覚する可能性がはじめから排除されているからである。

      首が回ったかどうかは、その瞬間に、確実に確認できる。この方法で、「金縛り」は100パーセント解くことができる。』

       

      私 良くこれだけ昔の授業を覚えているね。

       

      B君 覚えているんじゃなくて、先生の授業は全部克明にノートをとってありますよ。

       先生は、年度末にノートを集めて、「板書だけでなく、雑談でしゃべったことも要点を全部ノートに書いておいてほしい。そして、最高のノート一冊を選ぶので、そのノートを先生にプレゼントしてほしい。その生徒にはコピーを返す。先生はそれを基に次の年度の授業を研究したい。ノート採用になった生徒には、定期テストの点数にかかわりなく必ず年度末に成績として100点やる。」と言っておられて、みんな頑張ってたじゃないですか。

       僕のノートは残念ながら採用にならなかったですが、おかげで先生の授業ノートは今もとても役に立ちます。有り難いと思っています。持ってきたのはその「金縛り」の説明部分をワープロ打ちしただけで、当時先生が授業で話されたままですよ。

       

      私 そうか、それは光栄だね。しかし、僕はここでもう全部話していると思うが、何が新しい疑問があるのかね。

       

      B君 質問は3つほどあります。

       一つは、先生が、われわれが暮らしているこの現実の世界での、われわれの認識も、一種の金縛り状態での認識かもしれないと仰って、フランシス・ベーコンの「種族のイデア」の話をされました。金縛りから首を回して、意識を目覚めささせるというのが一種の「秘法」だとすると、この世界での通常の意識から、もっと目覚めた状態の意識になる「秘法」はあると先生はお考えですか。もしあるとしたら、それは仏教の悟りや、それ以外の宗教の神秘体験のようなものと関係がありますか。

       

       二つ目は、先生のおかげで、「金縛り」が怖くなくなってから、再び「金縛り」に会ったあるとき、わざと「金縛り」を解かずに楽しんで見たんですよ。そうすると「お化け」に出会うどころか、まるで、自分自身が「お化け」みたいに、不思議な「体外離脱」体験のようなことができたんですよ。天井を抜けて、夜の街を上から眺めているんです。自分の横たわっている身体も見えるんですよ。先生の「理論」だったら「夢」と同じという事になるのかもしれませんが、「金縛り中」からスタートすると、完全な「夢」ではないので、色々自由が利くわけですよ。それはとても不思議な経験で、霊魂は肉体を離れてありうるか、それとも、意識にはじめから「遠隔透視」できる能力があるのか、等を考えるきっかけを得たんですよ。僕の経験について先生のお考えを聞きたいんです。

       

       三つ目は、こういった不思議な事柄と、先生が常々仰っていた「色即是空」「空即是色」との関係ですが、「金縛り」の最中に見えた世界もやはり「空即是色」という意味で存在しているのでしょうか。そこをを教えてほしんです。変なことにこだわって、ますます迷いの淵に落ちるのは嫌じゃないですか。以上3つです。お願いします。

       

      私 君はやっぱり、なかなかすごい人だね。良く考えているじゃないか。

      しかし、虫が良すぎる所も昔から変わらないね。

      こんなに難しい質問の答を3つもまとめて僕に教えろと言うことかね。

      一つで10年かける人もいるのに、この場で3つとも答を持って帰ろうというのは、いくらなんでも虫が良すぎはしないかね。

       

      B君 一つでも良いから、持って帰りたいです。

       

      私 ではまず、この世界から、もっと違った次元の世界への「覚醒」は可能かという話だね。可能に決まっているじゃないか。そうでなければすべての宗教は嘘を言っている事になってしまうよ。

       

      B君 その場合「金縛り」なら、首を回したら一瞬で解けるのと同じような、この現実の世界から次元の違った世界に目覚める「秘法」のようなものは在りますか。

       

      私 在るね。

       

      B君 在るんですか。それを教えていただけませんか。

       

       それは真性の「悟り」だろうね。低いレベルではなくて、「真性の悟り。」

       

      B君 やっぱりそうですか。やっぱりそうか。(「そうか−。そうか−。」と何度も独り言)

       

      私 何が「そうか」かね。何が分かったか言ってみなさいよ。

       

      B君 これで、一つ目はちょっとだけ持って帰ることができます。有難うございます。早速ですが二つ目の質問です。

       

      私 えっ、一つ目はもうそれで良いのかね。しかし二つ目の質問は、何が疑問なのか、君はまだ言っていないよ。 

       

      B君 そうでした。少し長くなるけど、説明をもう少し聞いてください。

      僕は、「金縛り」を先生のおかげで「楽しむ」事すらできるようになったので、その状態をわざと伸ばして、「お化け」が出てきたら、「お化け」に心の中で質問して、答えてもらったり、女の「お化け」とキスしたことまでありますよ。

       

       それは楽しいね。余裕だね。心のフィールドが一つ広がって良かったじゃないか。

      一種の「夢見の術」を体得したということだね。ところで疑問とは何かね。

       

      B君 一番最近の「金縛り」では天井を抜け出て、家の外へ出て行ったんです。それは、起きようとして起きられない「金縛り」状態なのは分かっているので、ふと、ここでわざと目を閉じればどうなるかと、「金縛り」中に僕は考えたんですよ。

      「金縛り」中に考えるというのは、先生もされた事ですから、僕もしようと思ったわけですよ。そのまま眠ってしまったら、残念なんですけどね。

       

       そしてここからが、本日お伝えする不思議な話なんです。

      僕は目を閉じて、もう一度腕を動かし、起きようとしたんです。

      すると、今度は「金縛り」どころか、腕も自由に動くし、身体は起き上がっているじゃないですか。それどころか、強く跳ね起きたために、一瞬身体がバネのように弾んで、身体が何か宙に浮いているんです。身体は垂直になって、どうやら足は宙に浮いているようです。

      「飛べ」と思うと、身体が一瞬で天井の辺りまで来ました。下を見ると、なんと僕が眠っているのが見えます。すやすやと気持ちよさそうです。「幽体離脱だ。」と僕は思いました。

       

       腕を伸ばすと、天井板を突き抜けたような気がしました。

      「上に行けるぞ」と思った次の瞬間、僕はもう我が家の上に浮かんでいました。

      満月で空は明るいです。僕はこのまま飛んでみようと思いました。

      そのまま僕は民家の上空30メートルくらいをまるで風に流される風船のように飛んでゆきました。

       僕は家の近所の緑地の方へ飛んでゆきました。

      上から見ると、緑地の木々は、月光に照らされて少し銀色っぽく光っています。

      上から見ると銀色の花がたくさん咲いているようにも見えます。

       

       僕は下に下りてみることにしました。

       木々の間に涼しい風が吹いていて、気持ちよいです。

       歩くといっても、手足を歩くような感じで動かしているだけで、身体が垂直に立ったまま、ゆっくりと地上10センチくらいを平行移動して行くわけです。

      その時初めて僕は自分の手足を見て、自分が透明であることに気づきました。手も、足も見えないのです。僕は今見えない状態の「幽霊」と同じ状態なんだなと考えながら「歩き」ます。

       公園の外れまで来て、見えていないことに「自信」を持った僕は、公園周辺の道路を歩いてみることにしました。真夜中なので、人通りはほとんどありません。

       すると向こうの方から、自転車に乗った中年の男性がやってきました。やはり歩いている僕に全く気づかず、そのまま通り過ぎてゆきました。

       道を横切って犬が二匹走ってきました。野良犬のようです。犬なら気づかれるかなと思ったのですが、すぐそばを2匹とも全く僕に気づかず走り抜けてゆきました。

       もう少し行くと今度は野良猫が公園のフェンスの上で横になっていました。

       こちらを見ています。どうせ僕に気づかないだろうと、そのままの速度で歩いてゆくと、なんと僕のほうに向かって「ニャー」と鳴きました。そのまま知らない顔で横を通り過ぎ、振り返ると、こちらを見て、また「ニャー」と鳴きます。猫には僕が何か見えたのではないかと思います。

       

       そのまま歩いてゆくと、多分公園ができるよりも以前からあって、ここに残されたと思われる「お地蔵さん」のところへ来ました。この「地蔵」は、古くて、大きな石の祠のようなものの中に鎮座しています。この地域では夏にはこの「お地蔵さん」の前で「地蔵盆」の盆踊りをするところです。子供のころは僕も何度か参加したことがあります。前にここへ寄せていただいたころに祭りをしていたと思います。

       その「地蔵」の前まで来たとき、何か祠の奥のほうで光っているような気がしました。

       

       見るとおかしなことに、地蔵の前に、ワンカップ大関や、駄菓子などと一緒に、「バイキンマン」の小さなぬいぐるみがお供えしてあります。その奥の、地蔵の足元に辺りから何か光が見えます。丁度地蔵が立っている足元が1ミリほど浮き上がって、その隙間から光が漏れているのです。暖かい、ややオレンジ色っぽい光です。

       それを見つめると、一瞬で目の前がその光だけの世界になり、僕はその光に包まれました。

       僕は何か重大なことに気づいたような気がしました。そして次の瞬間、僕は目が覚めました。

       

       僕は今見た不思議な夢と、その前に「金縛り」からこれが始まったことを覚えていたので、忘れないようにすぐにノートに今経験したことを詳しく書きとめました。

       ノートを書き終わると、何かとても疲れたので、もう一度眠り、今度はぐっすりと寝て、朝、日が高くなってから目を覚ましました。

       この日は大学の講義は後期が始まったばかりで、午後だけなので、僕は朝食を食べるとあの地蔵のところへ行ってみようと思いました。

       不思議な予感があったのです。あれは夢じゃなく、本当だったのかもしれない。もし本当だったら、地蔵のお供え物は、まだそのままあるはずだ。そう思ったんです。

       

       地蔵のところに着いた時、僕は一瞬足が震えました。

       「バイキンマン」のぬいぐるみがそこにありました。ワンカップ大関も、駄菓子も、そのままそこに置いてありました。

       僕はそのお供えの「バイキンマン」のぬいぐるみを頂いて帰って、この日の「証拠」に欲しかったのですが、伸ばした腕がなぜか、経験したことがないような震え方をしました。それでこの経験だけをしっかり記録しようと、持って来たカメラでその写真だけを撮りました。そして「お地蔵さん」を何度も拝んでそこを去りました。

       先生。今の話は全部本当です。これがその写真です。

       先生は今の話と、僕の経験したことをどう判断されますか。それが聞きたくて、本日参りました。これが二つ目の質問です。

       

      私 なかなか面白い話だった。君は理屈で物事を判断したがる傾向が強かったけれども、そういう「神秘体験」をすると、今知っている理屈だけではどうしようもないと思えるきっかけを得られるね。それでも、君は今度も自身の経験を何とか「理屈」でも整理したくて、僕のところへやってきたというわけだ。

       普通なら、「それは良い経験をした。君はお地蔵さんの不思議な力に導かれたのかもしれない。これからは以前にもまして、信心深くなることを心がけたほうが良いね。」とでも言うべきところだが、君にはそういう事は言わない事にしよう。

       これは君の3番目の質問にも関係があって、君は多分僕の答を予感して、その3番目の問いを出しているのだと思う。

       君は「色即是空」「空即是色」を分かり始めていたと僕は思うけれども、そうすると君の今回の「神秘体験」で、「色即是空」の境地なら、何か引っかかるところはあるのだろうか。

       

      B君 この経験もやっぱり「色即是空」の内なんですよね。引っかかっているのでしょうか

       

      私 「内」というか、そもそも、そういう神秘体験を全部「偶然」で片付けられると思っている「唯物論者」は別として、「神秘的なこと」「奇跡」はあり得るし、自身でも経験した人は、君も含めて、そういうことは在ると信じるしか道はないじゃないか。

       丁度、この「目の前にあるグラス」を在ると、僕も、君も信じているようにね。

      君は、これまで、目の前のグラスの存在は疑わなかったが、今回の「神秘体験」をするまでは、そういう「神秘体験」の存在を疑っていたわけだ。けれど今回は信じざるを得ないところへ連れて行かれたわけだね。けれどまだ、自身がせっかく体験したにも関わらず、それを「目の前のグラス」ほどには信じていない。

      <


      B君 先生はやはりこういう神秘体験をなさっているのですか。

       

       それはないわけではないが、問題はむしろそのことへのこだわり方の方向性が、ほとんどの人にとっては問題だと思っているね。君だってこのことですでにふらふらしているわけだからね。ここは分かれば簡単だが、説明するのは非常に微妙なところだね。

       

      B君 先生は昔確か、「神秘体験」は「悟り」と関係がないと言っておられましたが、今も同じですか。

       

       今も同じだね。

      現実の、この目の前のグラスが、ただそれだけでは「悟り」と関係ないのと同じ意味で「神秘体験」も「悟り」と関係がないと言えるね。しかし関係があるといえば、同じ意味で関係がある。


      B君
       すると、こういった「神秘体験」を更に重ねて、その方面で「修行」しても精神的境地は深まらないということでしょうか。

       

       それもちょっと違うと思うね。さっきと矛盾する事を言うようだが、君はまだわずかな「神秘体験」をしたに過ぎない。

      グラスで言えば、君は唯一つのグラスしか見ていないのかもしれない。

       その公園にだって、君と同じような「幽霊」はたくさん浮遊していたのかもしれないよ。君が気づかなかっただけで、君に見えない諸存在が、その公園だけじゃなく、今もここに、僕たちの隣に、もしかしたら何千人もいて、僕たちのこの話をじっと聞いているかもしれないじゃないか。そういう風に考えたことはないのかね。

       

      B君 自分の経験のことを考えるので精一杯で、そういう風には考えていませんでした。

       

       では、そういったことをもう一度考えてから、「色即是空」「空即是色」を考えて見る事を勧めるよ。

       そうしたら
      「何と出会っても驚くことはない。」
       
      と僕が言ったことの意味が分かるようになるよ。

       
       君に「理屈」ではない、「経験」のほうからの成長のきっかけが、恩寵のように与えられていることを僕はとてもうれしく思うよ。

       昔のインド人が三千世界を感じ取り、様々な経典ができた。「邯鄲(かんたん)の夢」は単なる夢じゃないかもしれない。壷の中に広がっていた世界はこの宇宙のどこかにあるのかもしれない。滅亡した民族が神話の中に残した桃源郷も、エルドラドも、また数々の映画が作り出した空想の世界も、それは空想なんかじゃなくて、この宇宙か、または他の宇宙で、いつか遠い未来か、遠い過去に、現実に存在したことなのじゃないか、と考えれば、「何と出会っても驚くことはない。」という意味が分かるかもしれないよ。  

       多分そういう境地は、昔の禅の高僧は当たり前のこととして、皆知っていたし、その教えを受けた武士たちも、その教えによって、どのような事態に出会っても、どのような窮地に追い込まれてもうろたえる事はないという境地を身につけたと思うわけだよ。

       

      B君 先生、有難うございます。多分3つとも持って帰ることができるかもしれません。

       

      私 B君。君は残念ながら、多分3つとも持って帰れないよ。

       きみが「お地蔵様」と出会ったのは良かった。でも、君の「神秘体験」は君自身の運命や、多くの人の運命の転換に関わるような「神秘体験」にはなっていないだろう。

      それはなぜだろうか。

       君はただ自分の「神秘体験」をいま遊んだだけだ。なぜこの程度の「神秘体験」なのか、なぜそういう解釈になるのか、そもそもなぜもっと深い「神秘体験」や、解釈ができなかったのかと考えないといけない。

       だからといって「神秘修行」をもっとしなさいという意味じゃないよ。

       
       君は自分でも分かっているとおり、前回僕が言った「課題」を突き詰めずに本日やってきた。

       お供えされていた「バイキンマン」は小さな子供が置いたものかもしれないね。

       それは君の修行がまだ「幼児段階」だということを示している可能性がある。

      何もまだ本格的な修行は始まっていない。ただ君の話によれば、1秒だけ、君は光に包まれた。

       それが救いだね。

       君は自分が何のために「悟り」や、「究極の認識」を求めているのか、よくよく内省して、その方向性を良く見定めて、「志」を明確にしたほうが良いと思うよ。宗教的に言えば、「願掛けをするかのように」明確にしておかないといけないと僕は思うよ。道は「願掛けをした」方向に開けるものだよ。

       
       そうしないといたずらに時間だけが過ぎてゆく。

       僕はたくさんの生徒や親の人生を見てきた。多分教師の中では、相談に乗った経験のある方だろう。君は「運命」について多分考え始めたのだよ。けれど「志」も立てずに、「運命」に触れると危険だよ。

       厳しいことを言うようだが、君は重要なところにきていると思う。君は3つとも、本日の「答」をとりあえずここへ置いて、手ぶらで帰ったほうが良いと思うよ。

       
                                              (この稿 終わり)



      南木隆治(みなきたかはる)  

      http://minakiclub.jugem.jp/ (南木倶楽部・宗教と哲学の部屋) 

      dpait620@kawachi.zaq.ne.jp (南木へのメールはここへ)      

      http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/ (南木の資料室)

      http://star.ap.teacup.com/minaki/ (南木の資料室別館)

       

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