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2017.09.18 Monday

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    卒業生B君との対話(重要)物と心の処理の仕方とその後の課題について。

    2013.07.18 Thursday

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        目次(「南木クラブ・宗教と哲学の部屋」)


      「宗教と哲学の部屋」卒業生B君との対話。


       

      (重要)物と心の処理の仕方とその後の課題について。

       

      ある夏の日、高校卒業後、様々な新興宗教や、伝統宗教を相当遍歴したが、少しも心落ち着かず、しばしば私に電話をかけてきていた大学3年生のB君が、久しぶりに母校を尋ねてきた。B君は拙著「ゴータマ、シッダールタの冒険」は読了している。高校時代から哲学書や、宗教書は相当読み込んでいる、しかも理系の能力も高い、優れた高校生だった。

       

      私 電話の声は弱っていたが、会ってみると日に焼けて、元気そうじゃないか。

      友達は増えたかね。

       

      B君 元気じゃないし、これはという友達は増えないです。自分でも大分行き詰っていることが分かっています。結局先生のところへ戻ってきました。本日は先生に、自分自身でよく分からないぎりぎりのところを教えていただきに来ました。

       

      私 僕は君が高校生の間に、知っていることは全部教えたと思うよ。それ以上教えられることは何も無いかもしれないよ。

       

      B君 でも、僕のほうは先生が教えてくださっていても、その大事なところを聞き逃したと思うんです。それで本日参りました。

       先生が仰る「反世界・彼岸」は、それをどのようなものと意識するかによって、現実の世界での何かは変わりますか。知りたいことは「見えない世界」に向かって祈るその祈りの中身によって、本当に運命は変わるのかという事なのですが。

       

       もちろん変わるにきまっているよ。君も良く知っていて、授業でも何度も伝えた「ポジティブシンキング」の本質も同じことだね。あれはいわば、心の持ち方を変えることで、彼岸にまで一種の影響を及ぼして、それによって自身の運命を変えようとする、実は一種の「魔法」のようなものだよ。

      心の鏡面のイメージとして、そこに映る光景を、静まり返った湖水を想定するのと、黄金色に輝く朝夕の海や、日輪そのものを想定するのとでは、現実世界に起こる事柄や、運命が変わってくるのは当たり前だよ。

       君が修行した色々な宗教でも、「神」のことを思うとか「光」を思い浮かべる修行とかあっただろう。それは基本的に正しい修行法だと思うよ。逆に常に禍々しいことばかりを思い浮かべれば、それは思っているにとどまらず、現実となるだろうね。


      B君
       つまり、「引き寄せの構造」と「反世界」は関係があるわけですね。

       

       もちろん在るね。

      「反世界」が、もし唯物論者が思うように、本当に何も無いだけの「無」であるなら、何を願おうと、何を祈ろうと、運命は変わらないだろう。けれど、「無」そのものを成り立たせている「反世界」はもちろん単なる「無」では無い。それどころか、この現実世界の何億倍の何億乗の多様性や、可能性を持っているかもしれないわけだよ。 

       よって、意識のありようによって、当然引き寄せられる事柄や、運命自体が彼岸でも、此岸でも変わるのはあたりまえだね。

       というよりも、自分の意識のありようを変える事によって、彼岸の何かが変わり、そのことによって此岸で現実に起こる事も変化するということだと思うね。

       つまりわれわれは、そうして毎日「魔法」を知らない間に使っているとも言えるわけだよ。

       

      B君 そのものになりきるという修行法と、反世界=彼岸の認識との関係はどうですか。先生は昔、宇宙との一体感、自然との一体感を感じて、清らかな気持ちになっても、それは少なくとも仏教の悟りではないと仰っていました。そうすると、「なりきる」ということと「彼岸」とは次元が違うのですね。

       

      私 君の言うとおりだと思うね。

      「なりきる」事と、その向こう側へ突き抜ける事は全く次元が違っている。

      「なりきる」だけでは、まだまだ迷いの淵で、「清浄な気分」などといって喜んでいても、それは自分の心身が気持ちの良い風呂に入っているのとあまり変わらず、他の人や、世の中のためにそれだけでは、現実に何の役にも立たないだろうと思うよ。心身は脱落しないといけないわけだね。

       

      B君 禅の修行では、師家が修行者に色々「公案」を与えて、答えさせ、その「見性」の深さを調べるわけですが、仮に見性を得た人がいたとして、「悟った人には神も仏も無い」と言うのは容易に分かりますが、仮にその人が「禅の悟りと、キリスト教は根本は同じだ」と言われたりとすると、その「悟り」は自身の外に信仰の対象を認めているから禅ではない、その見解は間違っていると思うのですがどうでしょうか。それを、全くの偽の禅という人もおれば、そうでない人もおられる、ここはどう考えたらいいでしょうか。

       

      私 それは僕に言わせれば、僕はその禅が正しいかどうかなど言う資格もないし、言うこと自体にも興味は無いが、その見解が間違っているかどうかは、そう簡単に断言できる事ではないと思うね。どういう次元でその方が言っておられるのか、よくよく調べないとね。

       

      B君 やはりそうですか。その辺が全く分からなくなりました。そのぎりぎりのところはどういう判断をしたらいいのでしょうか。教えていただけませんか。

       

       要するに、「色即是空、空即是色」までは、「反世界=彼岸=永遠」の次元に気づいたものには簡単だ。その気づきは22才でもふとしたきっかけで得られるものだからね。

       世界の根底は「空の世界=永遠=彼岸=反世界」だと観ずることができれば、そこに信仰の対象とすべき神仏など不要であるから、信仰の対象となるような何らかの存在を認めるのはおかしいというのは全く正しいし、理解も簡単だ。しかしそれだけでは実はまだまだ境地は低いといわねばならないのだよ。

      「般若心経」に「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の後ろに「受想行識」もまた同じであると、わざわざ書いてくれている事の意味は何だろうか。

      「受想行識」を反世界の次元で、その心で十分に検討すれば、目の前にある机と、ある人物の意識にある瞬間に宿っているひとつの想いが、全く同等同格の「リアリティ」を持ち、また持たないかを観じることができるだろう。

      僕の見るところ、かなり禅や、仏教の修業をした方でも、この点での見解が中途半端な方が多いと、最近ますます分かってきたよ。

       この世に存在するどのような想いも、今、目に前にあるグラスと同じである。

      そういうことを君は考えたことはあるかね。

       

      B君 無かったです。

       

      私 僕もそういったことはなかなか気づかなかった。けれど「受想行識 亦復如是」についてよく内的に検証すれば必ず分かる事だよ。多くの人は「色」ほど「受想行識」は探求しないね。

      感覚も、想いも、意思も、認識も、一切合財がすべて「色」と同様に「受即是空、空即是受」である。同様に、「想即是空、空即是想、行即是空、空即是行、識即是空、空即是識」というわけだね。

      物質と想いは心の鏡に照らしてみればその本質は全く同じなのに、どうも、多くの方は物質(色)については、その実態が「空」であるというのは理解し易いのだけれども、想いは何と無くはじめから物質よりも希薄な感じがするから、それで間違ってしまうのだと思うよ。

      要するに、禅の悟りを得たと思っている人の心の奥に、残念ながら自身はそこを離れたつもりでいて、まだ極めて濃厚に「唯物論」を引きずっている部分があるんだよ。

      経済評論家の副島隆彦氏が「禅の連中は本当は唯物論だ。」というようなことをどこかで書いていたが、副島氏は、このような種類の禅者としか出会わなかったのかもしれないね。

       

      B君 神仏の存在の可能性をぎりぎりで言うとどうなりますか。このときはキリスト教の神様も含んで、先生の見解を教えてください。

       

      私 「目の前のグラス。」だね。

       

      B君 ・・・

       

      私 比喩ではなく、言葉の厳密な意味で、その本質を言ったんだよ。

      神仏は、それを思い浮かべる事のできる人にとっては、目に前のグラスが存在するのと全く同じ明確さで存在するね。どこに、どのように存在しているかは分からないにしてもね。「想即是空」「空即是想」ということだね。

      同様に、「色即是空」、「想即是空」だから、また同じ明確さで、グラスも神仏も存在しないわけだよ。

      これが 「受想行識」が「色」と同じということなんだよ。

      いま、人間が知っているものも、知らないものも、なにもかもが、すべて存在し、また存在しないと言えるわけだよ。これが分かれば、人生で何に出会っても驚くことは無いよ。

       

      B君 ちょっと分かってきたような気がします。人の心の中に起こる取りとめの無い妄想を馬鹿にしてはいけないですね。それは目の前のグラスと同じように存在する、ということですね。

       

      私 悟ったつもりの人が瑣末なことで悩み、自身の卑小さと、修行不足を悟る。それはその人が、物質については「色即是空」を一通り分かったのかもしれないが、自身の一念、一念を軽く見ていて、その一念、一念が、目の前のグラスのようにあたかも「実体」のように自身の心中に存在している事の自覚が弱かったからだよ。

      彼は「受想行識」は大した苦労をしなくても「空」に近いものだと思っていた。よってそれがグラスなどの物質と全く同じだけのリアリティを持つ「実体」として心を占領する事をほとんどわかっていなかったと言えるね。ここがきわめて重要なところだよ。

       

      B君 では、その上で、悟りについてぎりぎり一言で言うとどうなりますか。

       

      私 「目の前のグラス。」

       

      B君 禅問答みたいですね。ぜさっきと同じ答になるのですか。

       

       禅問答と同じかどうか分からないが、者は「色」の次元で答え、後者は「空」の次元で答えたわけだよ。「反世界」そのものの全体は決して認識できないし、言語化もできないが、有も、無も、その「反世界」の働きと自覚できれば、今言ったことの意味は分かるはずだよ。

       

      B君 何か要なことがわかったと思うのですが、それでも、気分は優れません。僕に欠けているのは何でしょうか

       

       僕は本日最初に君に会ったとき、「友達は増えたかね」と聞いただろ。君は否定的に答えた。

      何が言いたいかというと、それは、昔の僕もそうだったから、若い君に言う資格は無いけれど、結局「自分の認識を何とかしたい」と君は格闘しているわけだね。「こうとしか考えられないこの考え方を何とかしたい。」と格闘しているわけだ。
       僕も昔そうだった。

       けれど、本日話題にしている禅も、キリスト教も含めて、認識論の部分というのはそれらの宗教の一部にすぎない。

      仏教だったら衆生救済や、菩薩行をせねばならないことになっているし、キリスト教も隣人愛や、「右の頬を打たれれば左の頬を」の教えも在る。

       自分の認識の問題は、その活動をひたむきに続ける中で、自身も救われてゆくというのが教えになってるだろう。
       結局のところ認識の問題の解決だけでは、自身の魂の救済も得られないと考えているわけだよ。
       宗教としての禅宗も同じだ。利他の精神を何より大事にしている。

       仏教にも、キリスト教の母体のユダヤ教にも、強力な戒律があるだろう。

       君はこのことの意味をぼつぼつ考えないといけないと思うね。

      これらの宗教が持つ道徳律は、これらの宗教の認識論とどのように関わっているのだろうか。この点が君の次の課題かも知れないね。

       


      (この稿 終わり)

      平成25年7月16


      南木隆治(みなきたかはる) 
      http://minakiclub.jugem.jp/ (南木倶楽部・宗教と哲学の部屋) 
      dpait620@kawachi.zaq.ne.jp (南木へのメールはここへ)      
      http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/ (南木の資料室)
      http://star.ap.teacup.com/minaki/ (南木の資料室別館)
       

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